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【メンバー日記】ピアノの想い出(その12)


その題名で話題になった映画「君の膵臓を食べたい」が、先週、TV放映されました。私は、たまたま「住野よる」による原作の小説を読んでいて、いたく感動させられたので、興味深々で視聴しましたが、結果は残念なものでした。私の友人は原作を読んでいなかったので、サクラが何故「君(=彼)の膵臓を食べたい」と思うに至ったのか映画では読み取れなかった、と感想を洩らしました。その理由はサクラの遺書に書かれていたのですが、その部分が映画では、全面的に省かれていたのです。

余計なお世話ですが、映画だけを見られた方に知っていただきたくて、私なりに要約してみました。

サクラは賢い娘です。彼女は自分のアイデンティティが他者との「関係性」の中に築かれるものであることを理解しており、家族や、親友や、そして、元彼に囲まれた「関係性」に不自由を感じていませんでした。しかし目前に迫った死を自覚したとき、それだけでは充足できないことに気付きます。自分の存在の全てが他者との関係だけに委ねられていることに不安感を抱き、何らかの絶対的な存在基盤を得たいと願うようになります。

そんなとき、他人との係わりを断って、読書の中だけに埋没しようとする変人である彼の存在に興味を持ちます。サクラは自ら進んで彼と交わろうとしますが、彼は頑なです。それは、一見、自己防衛の本能から来たように見えながらも、一方では、彼女に対する細やかな気遣いを厭うわけでなく、彼は、サクラからのアプローチに戸惑いながらも、決して自己の立ち位置を見失わないのです。そのような彼の生き方に、サクラは自分に無いアイデンティティの持ち様を発見します。

サクラは、自分とは異なる彼の生き方を認め、それによって自分が抱いていた不足感が満たされてゆくことに気付きます。そうした彼の生き方に憧れ、そのような生き方を願い、最期に、遺書の中に「君の膵臓を食べたい」としたためました。

彼は、サクラのそのような気持ちに最後まで気づきませんでした。それでも、サクラに振り回されてきたこれまでの全てが、実は、自らの意思に基づいた「選択」であったことだけは自覚します。そして、サクラの遺書を読んで、ようやく気づきます。これまで、自分一人で生きてきた、すなわち「選択」してきたと思ったことが、決してそうではなく、サクラがいて、その存在との「関係性」の中から生まれたものであったということに。つまり、サクラとは逆の形で、自己の存在の「相対性」に気付かされるのです。サクラの死でそれが絶たれ、そこで初めて彼は自分が何を失ったかを悟ります。それこそが、彼を号泣させた真の理由でした。

「自己の存在の相対性と絶対性」を問うことは、十分に、文学作品のテーマであり得ると思い、それをあえて省略してしまった映画化に不満を持ってしまいましたが、監督としてもそれを映画で描き切ることの不可能性を判った上での選択だったのかもしれません。

蛇足ですが、ピアノ演奏にも、二面性、つまり、作曲者や聴衆との関係に起因し、それを意識した「相対性」と、音楽芸術としての「絶対性」の両面があるように思われます。

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