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ロストロポービッチ「最後のドンキホーテ」

ひととおりみ終えた後の真っ先の感想としては、「何ゆえドン・キホーテなのか」ということ。それは二重の意味において。ロストロポービッチといえば「表現の自由、芸術の自由の闘士」というイメージなので、本来彼の人生の最後をかざる「白鳥の歌」に最も相応しいのは、同じく旧ソ文化当局に対する面従腹背を強いられ、もとより自ら曲の献呈もうけたショスタコービッチの作品あたりであり、その作品を通じた「自由に対する強いメッセージの発信」こそ本筋ではないかということ。この点、Rシュトラウスの音楽はいい意味でも悪い意味でも「職人芸の世界」で、「内省の響き」から程遠いばかりかともすれば天才作曲家の若書きの才智ばかりが目に付く作品でもある(ただし30歳そこらで小憎らしいまでのこの作品の完成度はまさに驚嘆すべきで、先輩マーラーが「彼は新人類で自分にはもうついていけない」と嘆いたのもむべなるかな)。いまひとつは、ドン・キホーテに自分の人生を仮託するロストロポービッチの真情。ドン・キホーテは確かに「理想をおいもとめる人」だが、一方において「時代の流れに振り回された哀れな道化」でもある。
これらのことについて映像をみて思うのは、やはりロストロポービッチは本来根っこからの音楽職人だったんだな、ということ。「音楽」は彼にとっては、強い政治的メッセージを伝える媒体であるという以前に、真っ先に自分にとって楽しいもの、人生そのものであったということ。その意味において彼の人生を「自由の闘士たるモラリスト」と神格化してとらえるのは表層的な理解ともいえ、とどのつまり、彼は単純に「自分の好きなものを、好きなように奏でたいだけ」であったのではないかとさえ思える。いうならば少年がいつまでも駄々をこね続け、とうとうそれを人生の最後まで貫きとおしてしまったというある種の奇跡。凡人は成長とともに「妥協」という「分別」によって環境適応させていくところ、彼の内面は最後まで「少年のこころそのもの」であったと思うし、実際番組中も「ここはこう、あそこはこう」とオケの連中(本来彼らサイトウキネンの連中はひとりひとりがソロとして活躍する超一流どころ)が多少閉口するのもお構いなしに、あたかも自分のおもちゃ箱の中を自慢気にみせるやんちゃ坊主にも見受けられ、またそれが実に楽しそうでもあった。音楽家でいえばまさしくモーツアルト、秋葉系でいうところの「好きな同人誌をみせあうオタク」にも通じる無垢な純粋さに、もはや何らかの主義主張、政治的メッセージが介在する余地はまったくといっていいほどない。かって一度は「人民の英雄」と祭り上げられ一転祖国を追われたときも、その後西側諸国で「自由の闘士」とあがめられ数え切れない勲章を得たのも、それらは本人にしてみればまったくの他人事、自分は単純に好きなものを好きなように演奏したいところ、「政治」が勝手に「社会主義国家の英雄」だの「自由主義の闘士」だの都合のいいようレッテルを貼り付け、自分はその政治的プロパガンダに終始振り回され続けた、これはまさに「ドン・キホーテ」的茶番そのものなのだという彼の自嘲、ひいては政治的イデオローグに対する無言の抵抗さえ、どことなく垣間見させられるおもい。ベルリンの壁崩壊に真っ先にかけつけるその政治的ナイーブさ、ある意味、「B型」的「脇の甘さ」のシーンをみるとかえってそのことが一層強く感じられたりもする。多少牽強付会的裏読みが過ぎるかも知れないが、このドキュメンタリーはそんな彼の等身大の「実像」をあますことなく表現しているように思われた次第。


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