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【メンバー日記】久野久と私(その1)

メンバー日記

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写真1の説明

皆様は、日本人ピアニストで「純国産ピアニスト」の第一人者が誰であるかはご存知でしょうか?

実は私も今から10年前までは知らなかったが、ピアニストの中村紘子女史の著書「ピアニストという蛮族がいる」により、日本における西洋音楽の黎明期を深く知りたくなり、インターネットや当時の記録の文献などを調べるようになった。幸田延、安藤幸、瀧廉太郎、三浦環、久野久、山田耕筰、小倉末、藤原義江等々。

今回のエッセイは、「純国産ピアニスト」第一人者、久野久を取り挙げることにした。

「純国産ピアニスト」は海外に留学の経験がない日本人ピアニストを指すが、当時は日本に西洋音楽が入って来てまだ歴史が浅く、国民も静養音楽に触れられるのは上流階級の極一部の人しか触れられなかった時代であり、現代のように気軽に音楽に触れられる時代とは全く違う。そんな時代に一人の女性が西洋音楽、なかんずくピアノに惹かれ、生涯のパートナーにして生きていく彼女の生涯に触れてみよう。

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写真2の説明44 久野久は明治から大正にかけて活躍、学生時代は当時西洋音楽のパイオニアと言われた幸田延の愛弟子であったが、彼女は片足に障害があり、それ故に、耳が不自由であったベートーヴェンに対して限りなく親しみの情を抱いていた。彼女はまた、ベートーヴェンの32曲もあるピアノソナタを全曲演奏することを試みた最初の日本人ピアニストでもあったが、そこにはベートーヴェンに狂い取り憑かれた一人の女性の姿があった。彼女はもしかしたら、この世の誰よりもベートーヴェンを愛し、生涯のレパートリーにした、日本人で最初のベートーヴェン弾きでもあった。

写真3の説明 久野久は明治19年(1886年)12月24日、滋賀県の大津市に、近江商人の血を引いた裕福な質屋の3人兄妹の末娘として生まれた。生まれた所は大津市馬場町(ばんばちょう)である。

久にはあい子という姉と、その下に弥太郎という兄がいた。兄の弥太郎は東京帝国大学(現東京大学)を卒業したが定職には就かず、専ら久のマネージメントに徹していたが、その反面、久が弥太郎家族の生活の一切を支えなければならなくなり、加えて姉のあい子の一家も貧しく、久は結局のところ生涯この兄姉の面倒を見続けることになるのであった。

久は二、三歳の頃、女中に連れられて近所の神社に遊びに行っているときに誤って石段から転落し、大きな負傷をしてしまった。もし女中がきちんと医師のもとで治療をさせていれば、一生の障害になることはなかったし、その後の人生も違う人生を歩んでいたのかも知れない。

写真4の説明 久は一生涯、片足の障害に悩ませた。いや、この障害が久の一生涯を大きく支配することになった。当時の日本は封建社会が根強く残っており、現在のように福祉やバリアフリーなんてなかった。だから嘲笑の的となり、今後苦しむようになる。その精神構造や人格形成、人生に決定的な宿命を与えたといっても過言ではないだろうか。

幼い久の不幸は、更に続く。彼女が尋常小学校(現在の小学校低中学年生)に上がるか上がるまいかという頃に、両親を亡くし、久野家は一家離散し、久は兄の弥太郎と共に姉のあい子とは別れて、京都の叔父の服部家のもとに引き取られた。こうして大津における久野家の痕跡は途絶え、今日では生家のあった馬場町でも、一族を知る人はいなくなってしまった。しかし、大津月見坂の共同墓地内にある久野家の墓所を守る墓守一家だけが、辛うじて久野家と大津と縁をつないでいるのみである。

(次回に続く)

似顔絵7おゆみ

3歳でリトミック、5歳でクラシックバレエ、8歳でピアノ、9歳でトランペットを始める。ピアニストになりたいために音楽にひたすら打ち込んだが、今から8年前に脳梗塞を患い、一旦はピアノを断念、昨年にピアノを再開、40代で音楽学者を目指すために音大の楽理科に受験するために勉強中。好きな作曲家はJ.S.バッハ、スカルラッティ、モーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバー、ューベルト、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リスト、、ワーグナー、ブラームス、マーラー、ドビュッシー、ラヴェル、サティ、瀧廉太郎他。


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