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【メンバー日記】久野久と私(その2)

メンバー日記

写真1の説明

(承前) その1はこちら

京都の叔父の家に移った久は、叔父の勧めで生田流筝曲や三味線、長唄などを習得した。これは当時の上流階級の令嬢の習い事とは違い、手に職を付けるための手段としての習い事であった。めきめきと腕を磨きあげ、13歳の誕生日を迎える頃には師範の免状を許されるまでに上達した。

それを知った兄の弥太郎は、妹久の才能のめざましい成果を高く買い、上京させて上野の音楽学校で洋楽を学ばせようと考えた。

文明開化以降、明治の近代化と共に日本にも開設された西洋音楽の専門学校、東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽学部)は誕生してからまだ20年余りしか経過していなかったが、そこからは早くも幸田延、幸(後の安藤幸)という姉妹が現れ、共に華々しく欧米に留学したりして時代の寵児(ちょうじ)としてもてはやさていた。殊に姉の延は、明治の新時代を象徴する文明開化の輝かしいヒロインであり、若くして音楽学校の主席教授に迎えられてたその権威権勢は並ぶ者も無く、また当時の女性としては破格の給与を得ていた。封建制度の根強く残る社会の中で、身体障害者がハンディを背負って、両親も家柄も財産もない平民の女性が、恐らく一生未婚のまま生きていくには、これからの世の中では邦楽よりも洋楽だ、そんな思いが弥太郎の胸中にひらめいたのかも知れない。

ueno010-02-35b76明治34年(1901年)9月11日、久は満15歳で東京音楽学校の入学を許される。しかし、ぎりぎりの成績での合格であった。なにしろ、それまで京都に住み邦楽の中だけで育って、生のピアノ演奏はおろか、西洋音楽らしきものさえもまともに聴いたことのなかったのだが、兄弥太郎の命令で急に入試準備をすることになったのである。久は入試までの僅かな半年足らずの間に、それまで触ったこともなかったオルガンの弾き方を身に付けなければならなかった。日本洋楽界のパイオニアの幸田延や妹の幸たちの時代とは違って、久の頃には入学試験の資格には「邦楽演奏の心得」の他に「オルガン演奏」も加わっていたのである。

しかし、今から100年以上昔の明治33,34年頃とあれば、久がオルガンやピアノの音楽に親しむ機会が京都の街であろうはずもない。更にまた仮に西洋音楽に興味を抱いたとしても、当時の関西では、大阪・東区にある「博物場(現、大阪市天王寺動物園(天王寺区)と、マイドームおおさか(中央区)の前身)」と呼ばれる場所が唯一「音楽会」を行っている場所で、そこまで聴きに出向かなければならなかった。現在のように「ザ・シンフォニーホール」などのような立派なコンサートホールなんてなかった時代であった。

写真3の説明 一方、東京ではその頃になると、明治の初期、東京音楽学校の前身である音楽取調掛で邦楽の教授と同時に洋楽の各楽器演奏法を学んだ宮内庁雅楽部(現、宮内庁式部職楽部)の伶人たちも一人前に達していて、早くもピアノやヴァイオリンを演奏するのが趣味という者も現れた。10代の多感な時期に何らかの縁で伶人たちが奏する西洋音楽に出逢い、その魅力の虜(とりこ)になった「最初のクラシック音楽のファン」の誕生と言おうか。


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さて、久の生まれた明治19年、西暦1886年といえば、日本で最初に管弦楽団を設立した、歌曲「赤とんぼ」の作曲者、山田耕筰が生まれ、ヨーロッパでは大作曲家で大ピアニスト、そして大教師でもあったフランツ・リストが亡くなった年である。そしてリストによって完成した近代的ピアノ奏法を20世紀に向けて花咲かせることとなった次世代のピアニストたちは、まだ可能性を豊かに秘めた少年たちであった。20世紀のピアノの巨人と言われたラフマニノフは13歳、ヨーゼフ・ホフマンは10歳、ショパンの校訂者でも有名で、パリ音楽院の教授でもあったアルフレット・コルトーは9歳、史上初のベートーヴェンのピアノソナタの全曲録音を成し遂げたアルテュール・シュナーベルは4歳。世界のピアノ界は開花結実したばかりの近代ピアニズムという素晴らしい果実の前に、まさに絢爛豪華な祭典を繰り広げようとした。この果実は熟成させ、そして極上のワインとして世に送り出すのは、久と同じ世代に属するピアニストたちである。

久はこうした時代に貧しく弱小な東洋の島国日本の、更にその地方都市に生を受けたのである。そして何の運命であろうか、この果実の香りも味も知ることなく、言わば幻の果実を求めて音楽畑に足を踏み入れることになる。それも、もとはと言えば、生活のために、食べていくために….

(その3に続く)
写真4の説明

似顔絵おゆみ
40代にして音楽学者を目指して、音大の楽理科に進学するために勉強中。日本における西洋音楽の黎明期の研究に情熱を抱いている。

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