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【メンバー日記】初陣


「初陣(ういじん)」・・・初めて戦いに出ること。また、その戦い。初めて試合や競技会などに出ることにもいう。 「 -を飾る」

大辞林で「初陣」という言葉を調べるとこのような解説文が載っている。
どんな作曲家、ピアニストにも初めて発表会やコンクールに出た経験があるように、日本史を彩る有名武将にも初めて戦に出た経験というものがある。

初陣を飾る年齢は各人バラバラなのだが、大体元服を終える14~18歳くらいに行うことが多い。
例として有名武将の初陣を列挙してみる。

織田信長・・・三河国の吉良大浜攻め・14歳(vs今川氏)
徳川家康・・・寺部城攻め・17歳(vs鈴木氏)
武田信玄・・・海ノ口城攻め・16歳(vs平賀氏)
上杉謙信・・・栃尾城防衛戦・13歳(vs越後諸豪族)
伊達政宗・・・相馬氏との戦い・15歳
長曾我部元親・・・長浜の戦い・22歳(vs本山氏)
徳川秀忠・・・上田城の戦い・21歳(vs真田氏)
吉川元春(毛利元就の次男)・・・吉田郡山城防衛戦・11歳(vs尼子氏)

初陣といっても初戦で戦死しては元も子もないため、あまり激しくならなそうな、でも勝てそうな手頃な合戦が選ばれる。実際多くの武将が後方から戦の様子の
眺めたり、相手領地を放火しただけで終わったりしたこともあるようだ。
ただお家の事情が危ういときはそんな甘いことも言っておられず、激しい初陣を戦うこともある。上杉謙信は最初寺に入って修行していたお坊さんだったが越後が乱れ始めたため、当主だった兄の要請を受けて還俗、武将にジョブチェンジした。敵もたかが坊主上がりと舐めて謙信を攻めたところ見事にコテンパンにされ敵味方からも驚嘆の目で見られたという逸話がある。

上記で最年長初陣を飾った長曾我部元親も、初陣を飾るまでは武芸に興味を示さず今でいうところの引きこもり状態であったため家臣から「姫若子」と
馬鹿にされていたが、戦が始まると普段の印象からは想像がつかないほどの勇猛な戦いをぶりを示し多数の手柄を挙げたため以後のあだ名が「鬼若子」となったという逸話がある。

このような華々しい逸話があるくらいの初陣を飾る武将もいれば、初陣で大敗北する武将もいる。
同じく上記の徳川秀忠は、初陣相手が真田昌幸というあまりにも相手が悪すぎる合戦で、見事に敗北した。(ただ戦国時代も後期になると合戦そのものがなくなるため手ごろな戦がなくなるというかわいそうな面がある)

また、鎌倉幕府初代将軍、源頼朝も初陣は13歳であったが、平治の乱での従軍であったためパパの義朝共々平清盛に敗れるという経験をしている。

ここまで初陣についてつらつら書いてきたが、そろそろ本題に入る。

このPH会では会での活動とは別に個人的にストリートピアノにチャレンジする会員が多数いる。

参加すると各々報告日記を書いてくれているのだが、その中の日記に対するコメントから「江古田駅構内にストリートピアノがある」という情報を入手した。
江古田駅とは西部池袋線の駅である。偶然私の家からも比較的近いところにある。

最近会に入る人から「youtubeでストリートピアノに憧れて入りました」という言葉を聞くことも多い。確かに外のピアノで颯爽と難曲を弾きこなす姿はかっこいいと思うし憧れる人も多いのだろう。
実際私もいつかやってみたいなと思っていた。

ただ個人的には、こういう場所で弾くのは本当にうまい人で私のようなドヘタひよっこ人間には近寄りがたい印象があった。
ピアノが置いてある場所も都庁の展望台や日比谷などゴミのように人がいる場所が多く緊張でぺちゃんこに潰れてしまいそうだ。

それに比較して江古田ならそんなに大きな駅でもないし人も多くなさそうだ。仮に大失敗してもそれを目撃する人も多くないだろう。
それにこういうものはやったもの勝ちである。やらない後悔よりもやって後悔である。

このお手頃感、まさに「ストリートピアノ初陣」を飾るにふさわしい。

ということで、江古田駅までやってきた。
改札の中にあるため来るには電車に乗って来るか入場券を買う必要がある。今回は江古田周辺で無理やり予定を作って電車できた。

正直、駅にピアノなんてあるの?こんな小さな駅に?という半信半疑で向かった。

でも目の前にある黒々とした大きな物体の見た目は確かにピアノである。
なんか敵陣を目の前にしたような恐怖を感じる。

いやもしかしたらピアノの形をしたレプリカかもしれない。そう思って試しに鍵盤を押してみた。

「びょーーーん」

あわわわわわわわわわわわわ

音が鳴るよ、しかもちゃんと鍵盤が元に戻ったよ。アメリカとは違うようだ。(「I was busy.」という日記を参照)

どうやら本物のピアノのようだ。音が出ることが証明されたのであとは弾くだけだが問題はタイミングである。

できるだけ上り下りの電車が同時に発車してみんなが改札を出た後のタイミングを狙いたかったが、そんなグッドタイミングが訪れるはずもなく意を決してピアノに座った。
とりあえず弾いた曲は発表会でも弾いたstand alone。というかこれしかマシな演奏ができない。

弾いている最中も背中に矢のごとく電車に乗る人の視線が突き刺さっていたが、グダグダになりながらも何とか弾き終わった。命からがら何とかこなした、27歳最年長初陣であった。

まさか聴いている人なんていないだろうと思って振り返ったら1組の老夫婦が聴いていた。しかも拍手してくれた。
ほんとこんな演奏聴いてないで早く電車に乗ってくださいよと心で思いながら頭ぺこぺこしていたらおじいさんの方が「学生さんピアノ上手いねえ。私も昔ちょろっとピアノやっていたんだよー」って言いながらポロンポロンと曲を弾いてくれた。

正直上手いと言われたことよりも、確認もせず学生さんと思い込んでくれたことの方に感激したのだが、こうやって自分の演奏を褒めてもらうのはいいもんだなーと思った。

気づいたら他にも何人かの人がピアノの周りに集まっており、私たちがピアノから離れたら何人かがピアノを弾いていった。どうやら私のグダグダ演奏がストリートピアノの敷居を大幅に下げたらしい。ちょっとした地域貢献をした気分になった(自画自賛)

このストリートピアノは、江古田周辺にある大学が地域活性化のプロジェクトの一環で始めたもので、来年の春まで置いてあるものらしい。狛江駅にあるような地域密着型のピアノだと思う。
そんなに人が多いわけでもないので比較的楽な心境で弾くことができるのでストリートピアノデビューを考えている人はぜひ江古田のピアノをご検討ください。

いつか都庁や日比谷のような人が多い場所でも堂々と弾けるようになりたい。

by R.O

ピアノ歴:小学生6年間、現在~
好きな作曲家:久石譲 ドビュッシー
その他の趣味:書道、読書、弓道、旅行、ゴジラ映画を見ること、好きな作家・研究者のサイン会講演会に行くこと、史跡ガイド

初陣に関する話で一番好きなのは戦国時代の武将、島津家久豊久父子についての話です。

WARNING!!!!WARNING!!!!!

さて、ここからは毎度おなじみディープな日本史の話である。
正直かなり長いしつまらない話になっているので(でも語りたい)それでも読みたいという奇特な方、次の日早起きしなきゃいけないのに寝付けないから眠くなるような話を求めている方はお読みください。たぶん開始10秒で寝れる。

なおこの文章を読んで気が変になった、という苦情等が来ても責任は負いかねますのであらかじめご了承ください。

あと、全く音楽の話は出てきません

さて、ピアノを弾いたら次に行うは周辺の史跡散策である。

江古田という名前を聞いてピンときた人がいたらかなりの歴史好きだと思うのだが、この「江古田」という地で昔合戦があった。その名も「江古田・沼袋の戦い」

教科書にも載っていない戦であるが、その古戦場がこの駅から2キロくらいのところにある。(古戦場や城巡りをしていると平気で駅から3キロ4キロ離れていたりするのでかなり良心的な距離感である。)

駅から南に歩くこと25分、古戦場に到着。親切なことに案内板も書いてある。
この地で昔豊島泰経と太田道灌が合戦を繰り広げたのである。

ここで太田道灌(1432年~1486年)についてであるが、あの江戸城を最初に作った人である。(徳川家康がこの城を今のような大城郭にした)
扇ヶ谷(おおぎがやつ)上杉家の家臣で、合戦が上手く、和歌等の教養も深いという知勇兼備の名将として名高い。
今でも西日暮里にある「道灌山」や皇居吹き上げ御所内にある「道灌堀」にその名を残している。

この戦は道灌がそれまで東京に勢力を張っていた豊島一族をケチョンケチョンにした戦である。

ではこの戦がどういった背景で引き起こされた戦なのか、それを見ていくにはもう少し時代をさかのぼる必要がある(ここからがすごく長い。寝れる人はすぐに寝れる)

時は1349年、京都に幕府を開いた足利尊氏は、関東地方の統治機関として鎌倉を本拠とする「鎌倉府」を設置。尊氏は次男である足利基氏を鎌倉府長官に任命し、以後「鎌倉公方」と呼ばれるようになった。
さらに重臣の上杉氏を「関東管領(かんとうかんれい)」として鎌倉公方の補佐役に任命した。(PH会でいうところの管理人と副管理人のようなものだろうか)
これで西は室町幕府、東は鎌倉府が統治するというシステムが作られたのであるが、これが争いの元となった。

当時、足利尊氏は京都から関東を統治することを面倒くさがり、関東の統治権をどんどん鎌倉府に移していった。
これをいいことに鎌倉府は代を重ねるごとに幕府からの自立化を画策、しまいには幕府に対して反抗的な態度さえとるようになる。

そして室町幕府の将軍足利義持が死去したことをきっかけに、幕府と当時の鎌倉公方足利持氏(もちうじ)の関係は決定的な破局を迎える。
当時義持には子供がなく、跡を継ぐ人間を弟の中からくじ引きで決めることになった。こうして選ばれたのは6代将軍足利義教(よしのり)。

これに不満を募らせたのが持氏。自分だって足利家の血を引いているのだから将軍になる資格はあるし、くじ引きで決まった将軍なんかに従えるか、という気持ちだったのだろう。
こんな状態の持氏に対して必死に幕府への従属を説いたのが当時の関東管領、上杉憲実(のりざね)である。持氏にしてみれば自分に反対して幕府に味方しようとする憲実もうっとうしい。ついに持氏は憲実の征伐を決定。
ここに至って憲実は主君持氏と戦うことを決めて幕府に対して援軍を要請。時は1438年、永享の乱が始まった(永享とは当時の元号)

乱は鎌倉公方足利持氏の敗北で終わり持氏は切腹、残された子供も多くが殺された。

ただ、鎌倉府がないと関東の統治もしにくくなる。そこで将軍義教は自分の子供を鎌倉公方に任命しようと準備を始めていたがここでとんでもない出来事が起きる。

将軍義教が家臣の赤松満祐に暗殺されたのである。いわゆる嘉吉の乱である。

将軍が殺されるという前代未聞の事態に京都の幕府はびっくり仰天、とても関東には構っていられなくなり、新たな鎌倉公方には持氏の遺児で運よく処刑されなかった足利成氏(しげうじ)が就任した。
しかし、補佐役の関東管領に任命された人物が問題であった。なんと持氏を死に追いやった上杉憲実の子供、上杉憲忠(のりただ)が就任したのである。

成氏にとって親の仇が補佐役になったのである。もう争ってくださいと言われているようなものである。

案の定成氏と憲忠の関係はうまくいかず、ついに成氏が憲忠を暗殺、1454年(享徳3年)、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏との間で享徳の乱が勃発した。

この時、上杉氏は主に二つに分かれ、鎌倉の山内に本拠を構えた山内上杉氏(やまうちうえすぎし)と同じく鎌倉の扇ヶ谷に本拠を構えた扇ヶ谷上杉氏に分かれていた。関東管領に就任していたのは山内上杉氏である。両家共に上杉一族として手を携えていた

当初乱は成氏が優勢だったがのちに上杉氏側が盛り返し、ついに成氏は鎌倉を放棄して今の茨城県の古河に逃げ込み「古河公方」として戦いを続けた。
戦いの趨勢が変わったのが1476年、山内上杉氏の家老、長尾景春(ながおかげはる)が主君の山内上杉顕定と大喧嘩して古河公方側に寝返る(この時点で乱勃発からすでに22年が経過)
この乱を「長尾景春の乱」というが、この乱を鎮圧するのに功績があったのが扇ヶ谷上杉氏当主、上杉定正(さだまさ)の重臣、太田道灌である。

実は道灌と江古田で戦った豊島泰経は長尾景春と同調して太田道灌と戦った。当時道灌が関東で勢力を伸ばし始め、元から関東に根を張っていた豊島氏の勢力を侵食し始めていた。これに対抗したのである。

結局豊島氏は道灌に敗れ、当時本拠にしていた石神井城も陥落、豊島氏は没落した。長尾景春の乱も鎮圧され道灌の権勢、ひいては主家である扇ヶ谷上杉氏の権威も大きく上がった。
その後も上杉氏と古河公方は戦い続けたが1478年にお互いが戦いつかれて仲直り、ついでに古河公方と京都の幕府も1483年に正式に仲直りしてようやく足掛け30年にもわたった享徳の乱が終結した。当時京都の幕府は応仁の乱が始まっており関東で争っている暇なんてなかったのである。結局お互い何も得るものはない戦いだったような気がする。というか登場人物が多すぎてついていけてない

この「江古田・沼袋の戦い」は不毛な乱を終わらせる一石となった戦いであった。

さて、この戦いの後半立役者である太田道灌であるが、最期は中々悲劇的である。
自身の権勢が高まったことが裏目にでたのだ。

当時道灌の名声は、ともすれば主家である扇ヶ谷上杉氏をも上回る勢いであった。これに危機感を募らせたのが主君である扇ヶ谷上杉定正。
山内上杉顕定も、道灌が謀反を起こしたら大変だねって感じで定正の危機感を煽りつつ、自分は古河公方と関係を深めて勢力が大きくなった扇ヶ谷上杉氏を
弱体化させようとしていた。

こういった周囲の謀略と戦国時代にありがちな猜疑心により定正は道灌の暗殺を実行。道灌は定正の館で入浴中に殺されるのである。

道灌暗殺後、扇ヶ谷上杉氏は予想通り衰退し、1487年に山内上杉氏が扇ヶ谷上杉氏に戦いを挑み上杉氏内部での戦いが起こる。いわゆる長享の乱である。
この乱は扇ヶ谷上杉氏が山内上杉氏に頭を下げることで終結するが、数十年間も戦いを繰り広げた古河公方、上杉氏はもう体力的にボロボロの状態であり、振興勢力の北条氏にどんどん領地を奪われていくことになる。

最後にこの乱を戦った者たちの最後であるが、扇ヶ谷上杉定正は長享の乱のさなか、馬から落ちてそのまま帰らぬ人となった。道灌の怨念に殺されたという伝説がある。
山内上杉顕定は自分の兄弟で越後(今の新潟県)を治めていた上杉房能(ふさよし)が家臣の長尾為景(ためかげ)に殺されたため、その報復として越後に遠征した際に返り討ちにあって戦死した。この戦続きの関東で40年にわたって関東管領を務めていた。
ちなみに長尾為景は上杉謙信のパパである。

古河公方足利成氏はこんな大きな戦いを引き起こし戦ったにもかかわらず唯一畳の上で平穏な死を迎えた。

ちなみにちなみに、扇ヶ谷上杉氏は後に川越の戦いで滅亡するが、山内上杉氏は名跡を上杉謙信が相続したおかげで米沢藩上杉氏として、古河公方足利家は喜連川藩足利家として今も存続している(この喜連川藩、足利将軍家の末裔、源氏の長者として江戸幕府から破格の贔屓を受けており、いろいろエピソードが豊富な藩なのであるがまた別のお話)

ということで、子守歌ならぬ子守話、終わりです。

そいえば昔の人って、名前の読み方がわからないときってどうしてたんですかね。上杉のナントカさんみたいな形でぼかして言っていたんでしょうか


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