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肉体をもつ苦しみ~はじめてのラブレター

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僕が生まれてはじめて書いたラブレターです。なんか哲学的なタイトルですが、いま読んでも、さっぱり、自分で何がいいたかったのか、わからないです・・・

(中略)

全く同感です。きっとピアノに向き合う全ての人間が、「なんてピアノは難しいのだろう」、「どうして、自分の心の歌を十全に、かつ自由に表現できないのだろう」、と常日頃思っている事と思います。「フジコ・へミング」について以前、書いたと思いますが、何十年とピアノを弾きつづけている彼女が、既に何百回と弾いているたった数分の「愛の夢」を自分の満足に弾けたためしが、めったにない、と。蓋しこれは、全てのピアノ弾きが内心思うところの、「本当の自己の満足水準は、自分だけが知っている」という決して偽まらざる本音、なのでしょう。いくら、他からみると、その演奏が、華麗かつ流麗な演奏であったとしても・・・。そしてまた、この事を、当該演奏家にむかって、「あくまで自己に厳しいその倫理性、真の芸術魂」という様に、他人が賞賛したとしても、当の本人には、内心ピンとは来てないはず、と私は踏んでおります・・・。

話かわり、みゆきさんが、車の運転とピアノの技術を比較してましたが・・・確かに、車の運転も、ピアノの演奏も、「二本の腕と両足」を使ってその運動をコントロールするものです。ただ、なぜこうにも同じ体を使って操作しているのに、ピアノの演奏の習熟の方が難しいのか?・・・思うに、それは多分に、その「最終目的」が「物理的な運動、移動」なのか「自己の精神世界の表現」なのか、という事にもしかすると、その多くは起因しているのかも知れませんね。また、純粋に「フィジカル」な面からいっても、現代の自動車が、多くの電子機器と油圧などのメカニズムによって、1の力が10にも20にも自動的に増幅されるのに対して、ピアノの演奏はあくまでも1の力は1であり、10の表現を求めるのなら、10の力を楽器に加える必要があります。これを「7あるいは8の力で10にすること」、それが、すなわち「テクニック」なのでしょうが、その”テクニック”も、あくまで、”自己の身体のみを用いたもの”である事には、きっと違いありません。更に、この事をいささか発展するなら、日頃、「頭の中の音楽は理想的になっているのに、どうしてそれをそのまま表現できないのだろうか」、という矛盾ないし限界は、「肉体、音の振動という物理的な三次元的具体的現象」を、常に他者への表現伝達に際に介在せざるを得ないこと、にも多々関係があるのでしょう。とするなら、究極的にはこの事は、いささか大げさかも知れませんが、「肉体を持つことの煩悩そのもの」と密接なかかわりがある「人間の宿痾」とでも、ひょっとしたらいえるのかも知れませんね・・・。何しろ、世のなか、「天上の音楽」という言葉がある位ですから。

話がそれました。「ピアノがいつになっても上手く弾けないという悩み」、私も、昔からずっと持っているし、練習すればするほど、つくづく、その下手糞加減に嫌気が差すばかり。とどのつまり、「お終いは、決してない」。これがピアノに向き合う事の苦しさでもあり、同時に喜びでもありましょう。要は、「継続は力なり」、何処まで、続けていけるか。・・・となると、結局の所、やはり、最終的には「どれだけ音楽が好きなのか」、「自分の人生にとって必要不可欠なのか」という、”その人なりの生き様の問題”なのでしょうね。「好きこそものの上手なれ」、「この曲をどうしても弾きたいと思える曲に、どれだけ出会えるか」・・・・。

(後略)

これ書いてだした3日後に、「あなたとはムリです」と一言大変ご丁重にご返信頂きました・・・

この日記を書いたのは・・・

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健太郎 30代男 O型てんびん座168cm。ピアノは6年前に始めました。最近すこしさぼりがちですが、 宜しくお願いします。


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