転機が来たのは大学生になってから。大学に進学した私は、ある日、高校時代のクラスメートと旅に出ました。そこで、たまたま旅先にあったピアノを私が適当に弾いてみたそのとき、友人は何かを心に留めたようでしたが・・・それから3年後のことです。友人は、私の前でブラームスの「インテルメッツオ」を弾いてみせました。おそらくその間の3年間を独習に費やして全く我流で練習してきたのであろう彼の指使いは、私の目から見てもぎこちなく、いかにもたどたどしく映りました。がしかしその演奏は、正しくブラームスそのものでした。そして、私は知ったのです。本当の音楽というものがあるのだということを。別に下手な演奏で好いというつもりはありません。それは上手な演奏が好いに決まっている、にもかかわらず、私は彼の演奏に心を打たれました。
一体、どうして僕らは音楽に感動するのでしょうか。よく分かりませんが私は、そこには少なくとも二つの要素があるだろうと思います。ひとつは、「物理的な音響の調和」から生まれる心地よさです。そのためにはある程度上手な演奏が必須となりますが、上手くさえあればそれでよいというわけでもない。例えば僕らは、高度なピアノ演奏の技術に感嘆はするけれども、感動するかといえば、それはまた別問題です。ミスのない完璧な演奏が好いのであれば、ロボットに弾かせればよい。実を言うと、ユーチューブなどでピアノ演奏の音声だけを聞いたとき、私は、それが例えばパソコンによる演奏なのか、人が実際に演奏しているのかを識別できる自信がありません。あまりにもミスや揺動が無い時、パソコンじゃないだろうかと疑うだけです。そして、一体、ロボットの演奏に感動させられてよいのだろうか、という疑問に苛まれてしまいます。
もうひとつは、「環境を踏まえた人との関係性」です。具体的に言うならば、例えば映画やドラマに使われるBGMとしての音楽です。この場合、同一の曲であっても、それを単独で聴く場合に比べて、感情を揺さぶられる効果が圧倒的に違ってきます。これを、純粋に音楽に対する感動と言ってしまってよいのかという問題は残りますが、これは前述の第一の要素よりもずっと人間らしいと感じられます。
つまり、何を言いたいかというと、技術的要素は重要であるけれども、それが絶対ではない、ということです。その重みは人によってさまざまでしょうけれども。
話が逸れましたが、さて、彼の演奏を聞いたからといって、そこで私がピアノに目覚めたかと言えば、そういったわけではありません。ただそのとき、私は自分のその後の人生にピアノが関わってくるだろうということを予感したに過ぎません。発奮して、ピアノの練習でも始めたのかと言えば、それもナシです。だいいち、私の生活の場には、自由に使えるピアノがありませんでした。