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  3. 【メンバー日記】ピアノの想い出(その7)


家を建てたのは50歳になってからでした。子供たちも成長し、ピアノの置き場も確保でき、ようやく環境が整いました。そんなある日、妻君が言いました。「あなたが弾くのは曲の切れっ端ばかり。最後まで弾けないの?」と。そのとおりでした。私が弾くのは気になる曲の好きなフレーズだけ、あるいは、聞きかじったポップスの一部を真似てみたり、とまさに「弾き散らかし」の状態そのままでした。私にはピアノを弾くモチベーションもなければ、何のためにピアノを弾くのかというコンセプトもなかったのです。

コンセプトは明確でなければならない。そこで、自分なりの方向付けを考えました。まず選曲が大事、そして最後まで弾き透すこと(つまり、弾けそうな曲を選ぶこと)、次に曲の全部を暗譜することの二つです。暗譜するのは、ピアノさえあればいつでも弾ける態勢、すなわち、常時のスタンバイ状態を維持するためです。

最初に選んだのは、坂本龍一の「エナジーフロー」でした。当時、「24時間、戦えますか?」のCMでこの曲が使われ、ヒットチャートの上位にセミクラシックが食い込んだと騒がれていた曲でもありました。これを手始めに、坂本龍一のBTTB(Back to the basic)も購入し、「aqua」と「intermezzo」の2曲を覚えました。今見ると、後者には1999.12.23の日付署名がされています。流れるようなフレ-ズの印象的な曲で、成程、ブラームスを彷彿とさせるじゃないか、と思ったりもしたものです。

坂本龍一は今も著名な作曲家ですが、当時はちょっとしたブーム状態にあったようで、ブームが過ぎ去るとともに私の興味も凋落したように思います。コンセプトはともあれ、曲に対する執着を維持することが大変、難しい。この当時はまだそれほど切実な自覚ではありませんでしたが、自分には決して多くの時間が残されていない・・・それは、物理的な時間ではなく、身体的能力も含めてピアノに関わっていられる時間は有限でしかなく、おそらく加速度的に短縮していくだろうという予感です。ともかく、あれもこれもと対象を拡げてゆくわけにはいかず、何らかの絞り込みが必要だろうということだけは当時の自覚でもありました。

そうして選んだ曲の一つが「別れの曲」です。日本で好きなピアノ曲を挙げてとのアンケート調査をすれば間違いなく10指に入るだろうこの曲を選ぶのは、あまりにもベタ過ぎかもしれないけれど、やはり、除くわけにはいきません。持っていた楽譜は学生時代に買った全音のピースで定価50円となっていましたが、ご多聞にもれず、初めの部分だけの切れっ端しか弾いておりませんでした。テーマが変化する中間部から「4度の林」を抜けて至る難関の「6度の森」は、この曲が本来、エチュードであることを再認識させるにふさわしく、楽譜を見ただけで「これは無理」と諦めておりました。しかし何であれ最後まで弾くというコンセプトに従っておそるおそる手掛けて見たところ、両手を突き出すように差し出すという独特のパターンを掴みさえすれば同じ所作で全部を処理できるということに気づき、ある日、「森」を通過することができました。

この曲の難しさは「森」に限らない。最初の部分で、右手の1、2指を抑制しながら3、4、5指で旋律を浮かび上がらせる、つまり自然に反して指を制御する必要があるという無理無体な注文もあるわけですが、ともあれ「森」を抜けた嬉しさで、当時私は、楽譜全体を掌大に縮小コピーしたものをマスコットとして持ち歩いていたものです。

今現在、この曲を弾くことはできませんが、生涯の10曲を選ぶとすればおそらくその中に入ってくるはずの一曲です。私は、これをコレクションであると捉えています。世の中には、様々な嗜好のもとで様々なコレクションがあるわけですが、これは、決してお金で贖うことのできない特別のコレクションであると、私は考えます。

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