もう一曲だけ、私の心を捉えた「ヴォカリーズ」について話させて下さい。ヴォカリーズは一般名詞とのことですが、ここに挙げるのは無論、ラフマニノフ作曲の「ヴォカリーズ」です。NHKの「ラララ・クラシック」で取り上げたい曲(ピアノ曲とは限らず)を募集したところ、「ヴォカリーズ」が10位内に入ったとのことで驚きでした。不滅の「カノン」を含め、このようにコードが一段ずつ下降してゆく調べに対し、何故にかくまで私たちの心は惹きつけられるのでしょうか。原曲は声楽曲なので、ピアノ用に編曲されたものとなりますが、ユーチューブを見ると、実に様々な編曲があり、その中でも、コチシュ、リチャードソン、ワイルドによる3つが代表的であることが分かりました。それぞれに特徴があり、ワイルドの編曲はともかく派手で、高度な技術を見せつけます。リチャードソンには目立った特徴はありませんが、オーソドックスでピアニスティックな編曲が綺麗です。
さて、私が自身の自己紹介でも記したのは、ハンガリーのピアニスト、ゾルタン・コチシュの編曲によるものです。前半は原曲に忠実で、旋律とハーモニーをそのままの形で映しており、音を延ばすことができないピアノの特性も相まってやや単調とも言えますが、その特徴は最後の再現部で発揮されます。右手の2オクターブにわたるアルペジョが、圧倒的な存在感をもって、まさに銀河のキラメキを輝かせます。私は、ユーチューブでユジャ・ワンの演奏を見たとき、確かに鳥肌が立ちましたよ。ときには乱暴とさえ見えかねない凄まじいテクニックを見せつけるユジャ・ワンですが、彼女の右手は、押すともなく鍵盤を撫でるようにさすらい、はかなく消え入りそうなたゆたいが、しかしそのかそけさの中でも確実に一つ一つの音を伝えていきます。
一体どうやって旋律を奏でているのかまるでマジックを見る思いでしたが、楽譜を調達し、自分で再現を試みることで、その謎が解けました。これまでの暗譜は、大抵3か月前後に収まってきたのですが、この曲の暗譜にはほぼ1年を要しました。謎は解けても私には、旋律を浮かび上がらせるなどということは、到底無理で、本来のマジックは、それなりのテクニックがあればこそ実現できるのでしょう。しかし、この曲は、やはり、私のこだわりの一曲となりました。
田部京子というピアニストは、このアルペジョを過剰な装飾であるとして、コチシュの編曲からあえてそれを除外して演奏していました。彼女の言い分も分からなくはありません。曲の精神の孤高さを維持するには、余計な装飾は邪魔なのでしょう。私には、このアルペジョが、ショートケーキの甘やかさに感じられます。ショートケーキも生クリームも身体には毒でありましょう。けれども人生には、毒と承知の上であえてそれを賞味したいときもあるのでは、と思うのです。