それは6月2日の朝のことだった。筆者はいつものようにSNSでストリートピアノの情報を眺めては、「今日はどこに出掛けようか」と考えを巡らせていた。すると、衝撃的なニュースが目に飛び込んできたのだ。
「所沢駅 音まちピアノ終了のお知らせ」
所沢駅のピアノといえば、特にお気に入りのストリートピアノの一つである。筆者は海老名在住なので自宅から片道1時間半以上かかるのだが、設置当初から3年間幾度となく通い詰めてきた。それがこの7月7日で終了になってしまうという。
「思い出の場所がなくなってしまうなんて…現実はあまりにも重いで…」
弾き納めをしようと所沢に向かった。
所沢駅に着くと、改札を出たところでいつものようにピアノの音が聴こえてきた。ここはいつ訪れても、必ずといっていいほど誰かが演奏している。
木目調の温かみが感じられるピアノの前には、「終了のお知らせ」が掲示されていた。筆者はてっきり常設だと思っていたのだが、掲示によると実は元々期間限定で設置されていたものだったそうだ(どうやら駅ビル「グランエミオ所沢」がご厚意で場所の提供を続けてくださったおかげで、3年にわたって続いたのだとか)。
ピアノの傍にあるノートに記名し、順番を待つことにした。まだ午前中の比較的空いている時間帯だったが、既に4人ほどが順番待ちをしていた。ピアノの前は広いスペースがあり、ベンチも設置されていて、これから弾く人たちはそこに腰掛けて順番を待つ。
他の方たちが弾く曲は、クラシックからポップスまで様々だった。行き交う人々が足を止めて聴いている。中には立ち止まって動画を撮影している人もいる。上手な演奏ばかりで、筆者も次に弾く順番が来るのを待ちながら、聴き入ってしまった。
やがて筆者の順番がやってきた。ピアノの前に座り、鍵盤に指を置く。弾いた曲は、いつも通りベートーヴェンのピアノソナタ30番1楽章だ。弾き心地はいつも通りだが、この場所で弾ける喜びと寂しさが交錯し、特別な感情が湧いてくる。演奏を終えると、ベンチに座っていた方々が拍手をしてくださった。同時に「ブラボー」とのコールが聞こえてきた。そこには、よくお見掛けする男性がいらっしゃった。彼はいつも皆の演奏に熱い声援を送り、場を盛り上げて下さるのだ。
演奏後、傍で聴いていてくださった女性と少し話をした。彼女も筆者と同じように何度もここに来ていたが、終了のお知らせを知って駆けつけてきたという。「本当に残念です。なくなってしまうなんて信じられないです。」と彼女は言った。
お昼が近づくにつれ人出はだんだんと増え、辺りは次第に賑わってきた。筆者がベンチに座っていると、弾きに来た方、聴きに来た方が互いに挨拶を交わし、談笑しているのが見えた。ここは自然と会話が生まれる場所だ。活気あふれる雰囲気の中で、筆者は他の人たちの演奏を存分に楽しんだ。
そうこうしているうちに、1時間が経過した。次の予定があり、もう行かなければならない。これで本当に最後かもしれない。そう思うと胸が熱くなった。
これまでの思い出が頭をよぎる。ここでは5分の制限時間に収まるようにいつもソナタ30番1楽章を弾いていたこと。何度か居合わせた常連さんが「ソナタ30番の人」で覚えてくださったこと。冬場は冷たい風が吹き抜ける寒い場所だが、よくホットコーヒーの缶を握り締めて指先を温めつつ長時間居座り、数々の熱演を聴いていたこと。演奏中に通りすがりのお子さんが走って近寄ってきたこと。沢山の方とストピに関する情報交換をしたこと。もちろん例の男性がいつもみんなに「ブラボー」と声をかけていたことも。
ここで出会った方々ともう会えないのだろうか。演奏を聴くことも叶わないだろうか。またどこかのストピでご一緒できると良いのだが…。
思い返すとこの場所での演奏は筆者にとってかけがえのない時間だった。数え切れないほどの素敵な演奏と出会い、温かい交流が生まれた。このピアノが終わるのは本当に寂しいが、ここでの経験はずっと心に残るだろう。
最後に、このストリートピアノを企画した所沢市の担当者の方、場所を提供していたグランエミオの運営会社の方、運営にかかわったボランティアの皆さん、そしてこの場でご一緒した皆さんに心からの感謝を込めて、この文章を締めくくりたいと思います。ありがとうございました。