曇天が続き梅雨明けが待ち遠しい季節です。
早いもので令和元年も3ヶ月目、そして今年も後半戦に突入ですね。
毎日日記をつけるというのは大変なことですが、気が向いた時に書く程度なら敷居は随分と下がって続けやすいのではないかと思います。手前事ですが私は新年や誕生日、あるいは転勤・転居、仕事上の変化など節目に日記を書くようにしており、これがまた結構長く続いております(16歳くらいからかれこれ24年程!)。
折に触れて何か書き留めたものを時間が経ってからそれを読み返すのが、まるで自分を外から眺めたような心地で愉快なので長く続いているのだと思います。
今年の連休は連休初日に運動で怪我をしてしまい散々な令和の幕開けでしたが、今回は13年前の2006年の連休に書いた私の日記に寄せた日記を記そうと思います。
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GW
やはり休暇ってのはイイ!
のんびり散歩したり、食材を買いに市場に行ったり、家で飯作ったり、掃除したり。
普段では出来ないが、日常的なことを無心にやっている。
こないだとある人の面白い書き込みを見つけたので転記しておく。
(以下転記)
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。その魚はなんとも活きがいい。
それを見たアメリカ人旅行者は、「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」と尋ねた。
すると漁師は 「そんなに長い時間じゃないよ」 と答えた。 旅行者が 「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」と言うと、漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」 と旅行者が聞くと、漁師は、「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子供と遊んで、女房とシエスタ(昼寝)して。夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって… ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。それであまった魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。 その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「20年、いやおそらく25年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」 と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て日中は釣りをしたり、子供と遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。どうだい。すばらしいだろう」
(転記終了)
馬鹿馬鹿しいけど、結局幸せってこういうことなんじゃないかしら、つまり
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実際はこの後、当時の自分なりに色々と熱いことを書いているのですが…
どうにもそこは恥ずかしいのでお察し下さい。
はてさて、今これを読み返して思うのは、人間の根源的な幸福とは他者との比較の中で充足されるものではないということ。しみじみとそう感じます。
今朝のニュースはジャニー喜多川氏が亡くなった報道一色でしたが、その中でSMAPの「世界に一つだけの花」が流れていました。歌詞にある通り、人というものはどうにも他者と自分を比べてしまうきらいがあるように思います。
スポーツ、芸術、研究、ビジネスなど全ては競争の側面があり、競争の真っ只中にいるときは「勝てば幸せ、負ければ不幸せ」と信じている。誰かにそう信じ込まされているのか、あるいは勝手にそう思い込んでいるのか、兎にも角にも、訳が分からないくらいにそう信じ込んでしまっている。
でも実際にはそう単純ではなく、勝って不幸せ、負けて幸せ、ということもあるものです。
漁師とアメリカ人の話に戻ると、競争社会を戒めているというよりは一周回って幸せは常に身近にあるということを示唆したものと解釈できるでしょう。ただ、もしこの漁師のように競争に拠らない幸せを自分の中に確立していれば何も好んで競争の世界に身を投じる必要がない。自分が自分であることに満足していれば自分ではない何かになろうと足掻く必要もない。
などと、過去の自分に説いても詮なきことですが。
ところで、この世の中にはピアノで人と勝負する世界に身を置く方々もいらっしゃいます。大きな国際コンクールでいえば今年はチャイコフスキー国際コンクールが終わり我が国の藤田真央さんが第二位に輝きましたが、来年はまたショパン国際コンクールが続きます。
才能のある人が幼い頃から長い年月営々と努力を続け、そうした人が沢山集まって技量を競う。競うからには優劣がつき勝者と敗者が生まれる。またピアニストとして完成しても、後から後から優秀な演奏家は常に現れます。競争にさらされ、いつも誰かと比較される日々が続くでしょう。生きていくために十分な収入を演奏活動から得ることができるのはその中のごく一握りで、それが芸術の世界で生きていくということなのだとすれば何という厳しい世界なのでしょう。
一方で趣味で弾く我が身を振り返る。
大して練習しないうえに三日ほど練習を怠るとほぼリセットされて「ああダメだ」と嘆息する。さりとて、もうやめだと投げ出すこともない。勝ちも負けもなく、負けるとすればせいぜい自分に負けるくらいのもので、酒飲んだ帰りにラーメン食べたり、飲んだ翌日の朝は胃がもたれて練習さぼったり。その割には「ギレリスのように弾けたらピアノは楽しいだろうな」などとぼやく(笑)
でも、それでも楽しいのです。
弾けないなりに楽しく、むしろ弾けないからこそ楽しいのだとすら思えます。私がギレリスのように弾ける日がくることはないでしょうから、この楽しみは一生続くでしょう。
「趣味で弾いて上達して楽しい」
これは完成された演奏家や演奏家を目指す方々が幼少期のある一時期に瞬く間に通り過ぎてしまった楽しみとも云えます。
日本全国各駅停車の旅ではありませんが、自分は自分、のんびりと長い旅を楽しみ続けていきたい。どれほど時間が掛かったところで別段構わないのだから。
そう思って日々の練習に取り組みたいです。
そしてこの日記を読み返している十年後の自分へ。
ちょっとは上手くなりましたか。この頃より少しは練習時間が増えているかもしれませんね。変わらず楽しんでピアノを弾いていますか?
今はどうにも雁字搦めで色々と忙しく駆け回っており暫くは足掻きが続くようです。その頃には落ち着いていることを祈っています。
どうぞ健康を大切に。身の回りにある当たり前の幸せを慈しんで下さい。