9月22日金曜日、午後8時。
仕事で大きなプレゼンを終えた筆者は、海老名の自宅に帰ってくるなり、自室のベッドへ倒れこんだ。
「ふぅ、ようやく終わった…。今週末はどうするかな…」
ベッドに寝転びながら週末の過ごし方について、あれこれと思いを巡らせる。
「久々に一人旅にでも行くか…」
筆者はコロナ禍前、よく休日に一人でぶらりとプチ旅行に出掛けては、各地の風景や食べ物を楽しんでいた。
「せっかくなら、ホテルでゆっくり過ごすのもアリだな」
ビジネスホテルでの非日常感も、旅の大きな楽しみのひとつだ。お酒やおつまみを買って部屋で晩酌をすること、大きなベッドで朝までゆっくり眠ること、ホテルの美味しい朝食を頂くことなど、想像するだけで気分が高まってくる。大浴場付きの宿であればなお良い。
「しかしどこに行くか、それが問題だ」
ここで筆者は、当会メンバーのMさんが最近教えて下さったストリートピアノを思い出した。どうやら京都駅には、素敵なストリートピアノが設置されているそうだ。
「京都もいいなぁ」
「京都に行くとして、いつ泊まろう…。Tomorrow?」
しかし、the day after tomorrowの朝には都内で予定があった。Tomorrowの夜に京都に泊まろうというのは非現実的だ。
筆者は、決心した。
「京都に、今日泊まろう」
大事なことなので、もう一度言います。
「京都に、今日泊まろう」
こうして筆者はすぐさまホテルを予約し、新幹線に乗り込んで京都に向かうのであった。
翌朝、ホテルでゆっくり寛いで元気を回復した筆者は、満を持して京都駅へ向かった。
東側の大階段を7階まで登っていくと、ひとけの少ない静かな広場があった。広場はガラス張りになっており、窓越しに京都の街を一望することができる。景色を見ながら筆者はこう叫んだ。
「比叡山が見える!ヒエー!」
しばらく景色を眺めていると、広場の片隅からピアノの音が聴こえてきた。音のする方へ目を向けると、そこにはMさんが教えて下さったディアパソンのグランドピアノがあり、一人の女性が弾き始めたところだった。曲は「六甲おろし」だった。先日阪神タイガースが「アレ」したこともあってか、心なしか明るい音色に聴こえた。
筆者も弾かせていただくことにした。今回弾いたのはショパンの舟歌。タッチは浅めで力加減には気を遣ったものの、柔らかい上品な音がするピアノで弾いていて心地良かった。音が天井に反射してよく響き、音量も十分に感じられた。目の前に京都タワーを眺めながら弾ける点も、とても良かった。
筆者が弾き終えた後、親子連れが何組かピアノを弾きにいらしゃった。それほど混んでおらず、かつコンディションの良いグランドピアノということもあってか、短時間練習するにはもってこいなのだろう。お子さん方の個性あふれる演奏を存分に楽しむことができた。
広場を後にした筆者は、駅の反対側の西口へと移動した。改札前にはヤマハのアップライトピアノが設置されていた。こちらも弾いていくことにした。
ここでは筆者の定番曲、ベートーヴェンのソナタ第31番第1楽章を弾いた。先ほどの広場とは対照的に非常に人通りの多い場所なので、その分緊張感はあったものの、よく調整されたピアノで気持ち良く演奏することができた。
筆者の後には外国人観光客の男性が並んでいた。折角なので彼の演奏も聴かせていただくことにした。
冒頭の和音を聴くなり、筆者は思わずこう叫んだ。
「え?嘘だ!!?」
なんと、彼は先ほど筆者が弾いた31番の3楽章、「嘆きの歌」を弾き始めたではないか。筆者はここ1年ほど、毎週のように各地のストリートピアノに出掛けては31番を弾いてきたが、この曲を知る方に出会うことはなかった(もしかすると聴いて下さる方の中には居たかもしれないが、少なくとも曲名を当てられることはなかった)。まさかストリートピアノの現場で、この曲を知るどころか、実際に弾く方に出会ってしまうとは…。思いも寄らぬ出来事に、只々驚くしかなかった。
「嘆きの歌」の哀しくも美しいメロディーが胸を打つ。彼の演奏を聴いていると、この曲に対する並々ならぬ思いが伝わってくるようだった。
演奏後、彼の奏でる世界にすっかり飲みこまれた筆者は大きな拍手を送った。彼は英語で私に話しかけてくださった。
「さっき1楽章を聴いていたら、久しぶりに弾きたくなっちゃったんだ。やっぱりこの曲は表現が難しいね。31番は特にお気に入りのソナタだから、今日聴けて良かったよ」
まさに、音楽を通して心が繋がった瞬間であった。音楽の力があれば言語や国の壁をも超えてしまう。そんな感動的な体験ができた。それだけで遥々京都まで来た甲斐があったように思う。これからもストリートピアノで沢山の方々と繋がっていきたい。