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【連載 おゆみの音楽エッセイ7】 久野久(くの ひさ)と私その7


メンバー日記

写真1の説明 次に久がザウワー教授のもとを訪れたのは、大正14年も明けて3月に入ってからのことである。ところがそれまであれほど歓喜してザウワーとの出会いをこと細かく人々に書き送った久なのに、この最初のレッスン以降はぱったりとザウワーについて語らなくなってしまった。しかし、ドイツ語のできない久は通訳を同伴していたため、このときのザウワー教授のレッスンの模様は様々に語り伝えられることになった。
 一説によれば、ザウワーはこの時、久の今までの奏法をことごとく否定していたといわれる。あなたの運指法はめちゃくちゃだ、とまで言い切ったという。また、恐る恐るウィーンで演奏会をしたい、と相談を持ち掛けた久に、これから3,4年間みっちりと基礎からやり直して猛勉強を続けたなら、「月光ソナタ」ぐらいは人前で弾けるようになれるかもしれない。そう答えたとも言われる。
 ドイツ語の通訳を務めた大島武官夫人(大島浩駐独日本大使夫人)の口から、この話はたちまちにしてウィーン中に広まった。上野の教授であり日本一のピアニストであるはずの久野久が、ザウワーに基礎からやり直しなさいと言われた! そしてウィーンから日本まで話が伝わるのに時間はかからない。いずれにせよ、3月15日、久はベルリンにいる知人にこう書き送った。
 「近々ウヰンをさります。英、仏、伊とまはりまして日本にかへりますが、一寸予定はつけていません」
 そこでもはや、ウィーンやベルリンやパリでの演奏会の予定について何も書かれていないのはもちろん、ザウワー教授の評価について何も触れていない。またそれまで8月には日本に帰ると言っていたのが、一寸予定はつけてませんと変わる。久の胸中は日本を発つときあの「破滅」の予感が実感となってこだましていたのだろうか?そして、これが久の最後の手紙となった。

写真2の説明 4月20日の昼下がり、バーデンのホテル・ヘルツォークホーフの4階屋上から、黒っぽい和服姿の日本女性が中庭に身を踊らせた。シーズンオフのホテルには、使用人の姿も見当たらない。春の柔らかな陽差しがさんさんと降り注ぐ中庭には、何事も起こらなかったのように、ただクアパルクから飛びかう小鳥のさえずりばかり騒がしかった。
 やまと新聞大正14年4月22日付の訃報記事にはこう書かれている。
 音楽学校教授の久野久子女史自殺す
 文部省留学生として墺国(オーストリア)に滞在中 ホテルの屋上庭園から飛び降り 脳と両手足に重傷 
 文部省海外留学生東京音楽学校教授、本郷駒込林町(現・東京都文京区千駄木)久野久子は昨年秋以来、オーストリー、バーデンのウヰン郊外に在住し、熱心に音楽を研究して居たが、廿日午後一時三十分、突然ホテル、エルトフ・ホールの屋上庭園から中庭に飛び降り自殺を図った。其の為、脳低骨折及び両腕と両足に数箇所の重傷を負い、生命危篤である。原因は過度の勉強のため、発作的に此事を為したらしい(外務省入電)。
 しかし遺書はなく、現地の警察の実況見分などで自殺と断定したが、久の死には謎があり、転落事故説もあるという。しかし彼女はベルリンとウィーンで演奏会を開けなかったこと、またザウワー教授からの一言がショックになったことなどを考えたら、どうしても事故死とは考えにくいと私は思う。また4月20日は日本女子大学校(現・日本女子大学)の創立日であり、このことが全くの偶然なのか(久は日本女子大学校の教授を兼任していたため)、それとも彼女が精神的に追い詰められてこの日を選んだのかは、今でもはっきりしていない。
 恐らく、久野久の死の日付から櫻楓会との関係を問い糺す、当時のマスメディアの質問を撥ね付ける意図があったと思われても仕方がない。
 久野久 大正14年(1925年)4月20日寂 享年38歳
 
 


写真3の説明 あとがきと私の思い
 私が久野久女史のことを知ったのは今から10年ほど昔であった。彼女の生涯を知るや否や、共通点があるということで、彼女と私とをあてはめてしまうこともあった。恐らく久女史はこだわりと信念が人一倍強かったという点で発達障害の一つである「アスペルガー症候群」ではないかと思うようこともある。推測であるが、久女史がピアノを始めたのが15歳であり、学び始めはいくつかの問題もあったが、要領などを理解するようになると、ぐんぐんと成長していく姿は、発達障害を持つ人によくあることである。これは私の身近に発達障害を持つ人がいたので、発達障害を研究するようになり、分かったことであった。また彼女はピアノに対する強い思いやある特定の人物(ここでは作曲家)に対する強い思いがあり、同じ共通点を持つ人同士として霊山浄土にいる久と意気投合したような思いになったぐらい彼女について知りたくなってしまった。
 私は日本における西洋音楽の黎明期に大変に興味があったので、この分野は専門的に研究しようと思ったこと、特定の作曲家では久女史はベートーヴェンの虜になったが、私はプーランクの虜になったこと等、共通点があったことが久女史との縁であり、将来深く研究したい分野である。でも日本に居た頃の久女史のタフさは、私も見習わなければならないと思う。しかし、当時の音楽社会の未熟さがかえって久女史を不幸にしてしまったことも否定することができないと思う。或る意味、久女史は日本における「国産ピアニスト」の第一人者という実験台にされ、ピアノという楽器の奏法の正しい奏法と誤った奏法のお手本をザウワー教授と久女史が示して下さったのではないかと思う。しかし当時の久女史の録音(ベートーヴェンの「月光ソナタ」の第3楽章の冒頭部分)を拝聴している限り、誤った演奏法ではないと思うが(現代人には受け入れられる演奏だと思う)、やはり久女史は度々指の故障に見舞われていたので、当時の日本のピアノ奏法の未熟さが彼女の短い生涯を学んでいるうちに感じ取ることができた。
 もし久女史が昭和の高度経済成長期まで生きていれば、山田耕筰先生との共演も実現できたのではないかと思うと、本当に残念な死であり、この死を無駄にしたくないという思いが私の決意という形になって表れる。私は子供の頃からピアニストをを目指していたが、悲しいことにピアニストから作曲家、指揮者、そして音楽学者の道を歩むようになり、今度は久女史にしろ、先輩の幸田延女史、安藤幸女史、瀧廉太郎先生にしろ、彼らの死を無駄にしないよう、きちんとしたことを残していく使命が私にあるような気がした。これは一人の音楽学者の卵としての責任なのである。
 久野久女史、本当に有難う!お疲れ様でした。和あたしはいつまでも久野久女史を尊敬し、更に音楽道に不惜身命を通して日々精進して参ります。そのことを久女史は見守っていただけたらと思う。
平成28年4月11日      おゆみ
次回の「おゆみの音楽エッセイ」から、「鍵盤楽器の歴史と発展」の連載を致します。こちらも宜しくお願い致します。

写真4の説明

似顔絵おゆみ
幼少の頃よりソルフェージュを、5歳でクラシックバレエを、8歳でピアノを、9歳でトランペットを学ぶ。大好きな音楽に身を捧げるためにも、ピアニストをを目指していたものの、諸事情により作曲家、指揮者、そして音楽学者へと進路変更する。40代で某音大の楽理科(音楽学)の進学を目指すために精一杯勉強中。7月には某ピアノコンペティションに出場するために、プーランクの3つの小品を勉強中。



One comment to 【連載 おゆみの音楽エッセイ7】 久野久(くの ひさ)と私その7

  • 小川 京子  says:

    むずかしい!ペトロフさんもおゆみさんもすごい!

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