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情報過多

本来、労働の対価、価値尺度に過ぎないカネというものが独り歩きし、それ自体が至高なものとして認識される。

とひとまずそのように理解しておくと、カネを生み出す「情報」というものが何より大事だ、なんて世界になってくる。

所謂、ヒト・モノ・カネがリソースだなんていったりするが、それらに増して情報が大切だ、なんて世の中においては、手段に過ぎなかったカネが目的化しように、今度は情報を入手するためのハードウェアを揃え持つことで「利口になった気分」になったり、それらを持たないと世の中の流れに取り残されているのではないかみたいな危機感を覚えたり・・・

何がいいたいかというと、ふたつある。

ひとつは、最近、どんどん馬鹿になっている気がするということ(自分が? 世の中が?)。

いまの日本は情報過多だなんて言われたりする。日々の新聞開いても週2回は「ビックデータ活用がこれからの生命線」「統計学が最強の学問である」等と情報活用アピールのオンパレード。まあ、少なくとも、情報がないよりあったほうがいいはず。それがあっても別にいいんじゃないか・・・そんな風にも考えたりしたものだが、ネットの情報というのは所詮情報の整理整頓世界っていうのか、要は、演繹的思考か帰納法かというと、明らかに後者だろう。

情報を入手して、人様の動向を把握して、それに乗っかりたいのか、いったい何をしたいというのだろうか・・・。それが実体あるものへ再投資するためのカネ儲けになるとか、生命・財産の危機を事前に把握して回避するために使うっていうのんだったら、まだわかるし、人脈づくりとか人のつながること自体の媒体としてある程度有用なのも、わかる(但し、自分にコンテンツがないとそれなりの繋がりしか得られないが)。

少なくとも、そこら辺はわかる・・・。

ただ、物事ってのは、バランスというか、異なる二つのもののどっちかに傾いてないか、そこら辺って結構重要なはず。情報入手はいいんだが、「学びて思わざれば則ち罔し」というのか、帰納的思考ばかりだと所詮後追いとか模倣の世界になってしまわないか? 独自の価値創造、つまり1から10を創るってのは、演繹的な思考を磨くより他はあるまい。もちろん、過去の経験値を学ぶことはマストだが、その先どうするかが真の勝負どころともいえないか。でもって、あまりに情報過多だとその整理整頓に終始し疲れ果ててしまったり、あるいは、考える前にすぐ解答をみて暗記するみたいな変な癖がついてしまったり・・・

図書館にいかないと情報が入手できなかった時代、それも、限られた一冊の本・資料しか入手できず、それをなんとか何倍にも膨らませようとしていた時代は、いま思い返すと、なんとも遅れていたなんて思ったりもするが、一方において、人間の知的活動なんて実はどんな時代もそう変わってないんじゃないか・・・そんな風にも思える。なんとなく、江戸時代でも、飛鳥時代でも、平安時代でも、後世からするとわれわれの方が頭いいなんて思い込みがあったりだが、実際どうなんだろう・・・確かに、理系は進んでるのかもしれないが、文系主流の法律学なんて、たとえば奈良時代の南都六宗のお坊さんが喧々諤々議論していた仏教論と、頭の体操的に実はそんな変わらないのかも知れないし、余程、奈良時代の人の方が難しい事考えていたような気もする(実際、彼らの議論読んでも、「古語」という言語のハードル抜きにしても、さっぱりいってる事わからない)。

これからはできるだけパソコンは使わないようにしたい。なんでも手書きでメモをとる、思考をまとめる、事務連絡は手書きFAX・・・等々

ハードウェア的にみても、一枚1円の白紙のコピー用紙のコスパのよさ! (解像度は、0.3ミリのボールペン使うと、直観的には1920×1080ピクセルくらいの情報量があったり?、電源必要ないし、何より軽いし、曲げたり破ったりできるし・・・タブレットとかの比ではない) & 手書きメモも、パワポとかで資料作るより手軽で簡単、かつ、フレキシブル。入力媒体として、ペン&人の手そのものを上回るデバイスはない・・

「もうひとつ」はまた稿を改めて。


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